第2クール《序章》 感想レポート
2001.9.22 於:人権文化センター5F 集会室
10.2 Update!

ゲスト:部落解放同盟浪速支部 渡邊実氏・浅居明彦氏


3連休初日にもかかわらず大盛況でした!

今回、突破塾第二クール序章が『もうひとつの大阪〜「部落」の街・人・歴史を「知る」〜』ということで、部落解放同盟の渡邉さんと浅居さんのお話を直接伺えると知ってから、当日参加するまで、(そして参加してからも。)ふと気付くと部落差別ということについて、自分を振り返っていたように思います。

わたしが部落差別というものを知ったのは、確か小学校低学年のとき、週に一度「道徳」なんていう授業があり(すっごい名前だなあと思いますが。今でもカリキュラムに残っているのでしょうか?)その時間に「にんげん」という教科書で同年代の被差別部落の方の書かれた作文を読んだのが初めてだったように記憶しています。その文章には「差別」という言葉や「部落」という言葉が出てきたというのは覚えているのですが、そのときのわたしにはもちろん「差別」も「部落」という言葉もチンプンカンプンで頭の中が「???」でいっぱいという感じだったのを覚えています。
でも、今でもそのときのことをこんなに覚えているということは言葉の意味は分からなくても、幼心に多分その文章から感じるかなりの衝撃があったのでしょう。

そんなこんなで始まったわたしの中の部落問題というものはずっと「気になる」ことの一つであったのですが、学校で取り上げられるたび、関心を持って本や資料を読んだりすることはしても、大阪というところに住みながら新興住宅地の新しい街では実際の生活の中でほとんど(このほとんどというのがミソだと思う。)部落差別というものを感じたことがなかった為か、直接向き合ってみるということはしてこなかったのです。
そんなわたしが今回こういう出会いと機会を得られ、これまで自分の中で部落問題がどうあったかなあと振り返りながら参加しました。

当日何よりも印象的だったこと。
芦原橋の駅を下りて、人権センターのある方向へ足を進めると、とても街が静かだったこと。
人気が感じられない。
「え!?どうしたの?なに?」という感じ。
人気の無さ加減だけを取り上げたら休日のビジネス街にでも来てしまったのかと思うくらい。
道路も歩道もとってもきれいに整備されている。
リバティおおさかの方へ歩いていくとパステルカラーのカラフルな新しいマンションが並んでいる。
でも、生活の匂いと音がしない。
誰も住んでいないんだろうかと思って、見上げてみると洗濯物やお布団を干してあるのが見えて、そうでないというのが分かる。
ほっとしたのは、車が走り抜けるきれいな車道を自転車に乗ったおばちゃんがぐわわわ〜と日常たっぷりの格好で走っている後ろ姿を見たときと、人権センターの回りをぐるっと散歩してみたときに、2次会で何とも美味しいご馳走を頂いた「岳」のある一角で、どの街でも変わらぬ勝手気ままな猫さんを見つけたときだけ。
心がザワザワするんだけれど、なんでなのかその時点では分からず、その後講演で伺った渡邉さんと浅居さんのお話からやっと気付きました。
芦原橋駅のある道一本を挟んで向こう側にはコンビニもファーストフードの店もあるのに、こちら側にはお店がない。
なるほど、三次会で渡邉さんに駅の向う側へ連れていってもらってみると何とお店のいっぱいあること。にぎやか、にぎやか。
駅から降りて人権センターに向かったときに郵便局があるのに気付きましたが、講演の中で説明して頂いたスライドの中にありましたが渡邉さんたちの運動のおかげでやっとこちら側に出来たということ。
でも、わたしがなぜ郵便局に気を止めたかというと、きっとそれは回りにあるはずのものがなく、妙にとって付けたような印象があったからだったからなのでしょう。
講演の中でお話して頂いた渡邉村で育まれてきた文化や、差別の歴史もわたしの知らないこと、知りたかったことばかりで、とても興味深く勉強になったけれど、わたしが今までほんのちょっぴり感じたことのあるあいまいな部落差別(こちらも見逃せない現実ではあるけれど。)とは比べ物にならないくらいはっきりと目にみえる差別をそこを少し歩いてみただけでも「ああ、そうなんだ。そうなのか。」とまさに「直接」感じました。

自分の中で何かが劇的に変化するということはありませんでした。
ほんの一部ではありますが自分で「今」を確認し、またお話を伺って、過去からの問題だけでなく、現在での問題もまだまだあって、「こりゃあまだまだかなり手強いぞ。」と感じるものは確かにありました。
でも、かといってそこに絶望感というものはなく「うん!これはどうにかしていけるぞ。」と思えたことが、一日を過して得たものでした。
何て楽天的なんだろう、簡単すぎる、軽すぎるかなとも思うのですが、わたしがそう感じることが出来たのは渡邉さんや浅居さんたちがこれまでずっと続けてこられてきたことの力であり、エネルギーに溢れていて目がキラキラしている、でもお酒を呑むとおっちゃん!?の彼ら自身の力なんだと思います。

今から考えてみるとわたしの通っていた学校は、内容の善し悪しは別にして、かなり同和教育に力をいれていた方なのだと思います。
わたしがボーッとしている方だというもあるかもしれませんが、何のことやらさっぱり分からない小学校低学年の頃からいきなり同和教育を、それも「差別があります。
でも差別はいけません。」という「差別はいけないことだ!!」ということに重点を置く為に、知ってはいるが余計に触れ辛いことになってしまって、寝た子を起こしているという意見もあるでしょうし、ある意味当たっているところもあるのかなとも思います。
ですが、それは伝え方の問題が大きいのではないでしょうか。
「知る」こと事体がいけないのではないと思います。
わたしは今回、参加することで直接はっきりと差別を感じて来ましたが、それまでのわたしの生活の中にも、突然ひょっこりそれもあからさまではなく曖昧な感じで顔をだすことがありました。
それは、ないものではなく、やっぱりあります。
多分、今の子供たちもそんなときがいつかひょっこりやってくるのだと思います。
渡邉さんは年に何回も講演をされているそうで、その中で子供たちとの対話はとっても楽しいと言っておられました。
渡邉さんが楽しいということはきっと子供たちも楽しいのだと思います。
同和教育といって映画を見せたりするのは楽ですし、それ以上踏み込むとなると手間もかかるし、渡邉さんたちがもっと忙しくなるかもしれませんが、面倒がらずに伝えることがまた次の一歩になるとわたしは思います。
「部落の技術」だなんて興味津々、ワクワクドキドキだと思います。

今回とっても素晴らしい出会いがあったことに、宮崎親分、乙女組のみなさん、並びにスタッフのみなさんに感謝いたします。

あっこ
 学生時代まで北海道・東北に住んでいた自分としては、いわゆる”部落問題”は別の国のことでしかなかった(在日朝鮮人やアイヌ・ギリアークなどの北方民族への差別はあるにしても)。高校の歴史の授業で取り上げられたこともあったが、教師・生徒共に、”そんな土地捨てて、北海道に来ればいいのに”という思いだった。(もっとも、以前宮崎さんから北海道のエセ同和のことを聞いたときにはあれっと思ったが)

 関西に住むようになってから初めて身近に同和問題を感じるようになったが、生で接するのは今回の突破塾が初めてであった。

 部落差別の歴史・現状を聞いているうちに感じたことは、現在の部落差別は水平社運動の頃とは質が変わってきているということだった。すなわち、民族差別や人種差別に共通する”異質な者”の排除という面は薄れ、代わって”関わることによってややこしいことに巻き込まれたくない”という傾向が強まっているように見える。

 また、話を聞いているうちに、やはりかつて差別されていた”山の民”サンカの現状はどうなのか?と、考えるようになった。二次会でちょっとだけ聞いたのだが、今でも中国地方に一部残っているとのことだが、かつでは東北から九州に至るまで、広くサンカは存在していたのである。だが現在、”サンカ問題”というものは私の知る範囲では聞かないし、もしサンカに対する差別が残っていたにせよ、次世代では消滅する可能性が高いと思う。なぜなら、ほとんど歴史上、いや伝説上の存在となりつつあるからである。

 部落問題は、なぜこうならなかったのか?果たして、今の闘い方は有効なのか?たとえ、運動の結果としてその地区の建物や道路が整備され、看板が書き換わったとしても、差別のシステムはむしろ巧妙化かつ強化されているのではないのか(もっと言えば、結果として周囲から浮いた存在になっているのではないのか)?30年前の家のスライドを見たとき、懐かしいな、と思った。大都会の大阪ではともかく、私の故郷である北海道の片田舎では(冬を越すためにもう少ししっかりした造りだが)あそこまでは密集してはいないにせよ、30年前ではそれほど珍しくはなかったからである。何となく、エセ同和が生まれた理由が解るような気がした。(このように勝手なことを書いているのも、ゲストの渡邊・浅居両氏が、本音をぶつけられる人だと思ったからである。)

 部落問題の解決について私なりに考えてみた。ゲストの方々は、教育が大切とおっしゃっていた。確かに、キューバのように人種差別をほぼ解決したかのように見える事例はある。しかし、結局のところそれは差別を押さえることでしかないようにも思える。差別をなくすには、”存在を消す、しかるのちに伝説化する”これがベストではないだろうか?自分に誇りを持ち、かつ世の中に必要な技を持っているのなら、たとえ生まれ育った土地であろうとも、捨てられると思う。これが、誇りも技もなければ”逃げる”だが、残された(すなわちこれまで差別してきた)側が困るのであれば、”捨てた”ことになる。カナダの日本人社会で差別された事例も伺ったが、海外の日本人社会は”リトル(関東以西の)日本”ならば、日本の法律が及ばない分、より濃縮されて現れるとも思う。国内外を問わず、システムとしての部落差別がない土地への分散が、有効な解決策ではないのだろうか?

渡り研究員
前回突破塾のとき岡山の男性が貸してくれた、俵万智「あなたと読む恋の歌百首」を読みながら新幹線。

観覧車回れよ回れ思ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) 栗木京子

俵万智が教えていた女子高校生に圧倒的な人気だったという歌。
けっ、て感じなのになぜか落涙。
親戚に歌人が何人かいるから、我も歌心があるのかな。

関西突破塾、第2クール序章ということで芦原橋駅浪速人権文化センターへ。
「もうひとつの大阪〜「部落」の街・人・歴史を「知る」〜」
講師は部落解放同盟浪速支部 渡邊実・浅居明彦氏。

スライドを観ながら、お話は渡邊さんのボケと浅居さんのツッコミで進む。
浪速部落には竹や皮細工、火消しの歴史がある。
国の制度に先駆けて自分達で学校や病院、市民会館を作って運営してきた。
貧しいとか被差別というマイナスイメージとは別の豊かな文化はなかなかマスコミには取り上げられない。

国の重要文化財である大きな太鼓、綱貫沓(つなぬきくつ)という皮製の靴、雪駄などがこの街で作られ、今も「部落の技」として生きている。

行政のとってきた差別について話すとき、渡邊さんは何度も「怒り心頭です」と言った。
そして「運動が大好きです」と言う渡邊さん。
部落解放運動は「世の中のおかしい事は『おかしい』と言う」ことをやってきた。
部落も障害も老いも個性、個性で受ける不利益を取り払っていこう。
地域を愛せよ、人を愛せよ、地球を愛せよ。

私は小学校で同和教育を受けた。狭山事件を知っていたが、私の住んでいた地域に同和問題は無かったと思う。
「被差別部落があると教育することで差別が生まれるのでは」
「差別はいけないと教育しても差別はなくならないのでは」
という疑問は私もずっと持っていた。

浅居さんは差別が無かったことにされるのは嫌だと言う。
「かつて部落差別という歴史があった」と言える世の中にしたい。
「部落に生まれてよかった」と誇りを持って言いたい。

成る程。しかしなんでこれが報道しにくいのか、わからない。
それこそ「みんなでやれば怖くない」じゃないか?

2次会は渡邊さんが毎日お昼に行くという「岳」。
特製の「さいぼし」という馬肉の燻製、あぶらかすのスープ、煮こごりなど。
焼きそばの味付けも美味しい。

渡邊さんが作った太鼓を見せて下さる。
「私は運動してなかったら、こうして皆さんとお話することも無い、ただのおっちゃんですから」
「そんなこと(ないですよ)」
などと言ってたのに3次会では、渡邊さんとどつき合いになる。

「女の子が靴を脱ぎ散らかしたら、そっと揃えるのが男や」と渡邊さん。
「揃えなさいって言えばいいじゃない」と私。
「あほかあ!」
「何でよ!」
「あのなあ、女の子が運動に参加されへんのは、女の子が悪いのと違う。
男がその女の子の状況、苦しみを理解せなあかんのや!」
「一人で苦しまないで話して欲しい」
「おまえの愛はうっすい!カスじゃ!」
「キィーッ!」
やっぱりただのおっちゃんかも。いや、ご馳走になったのでそんなことは言わない。
有難うございました。大変楽しかったです。本当です。

Mさんの案内で次の店。アメリカっぽいバーに10人ぐらいで。
3時過ぎに店を出る。これ以上お金を使いたくない私とN君とI君3人は街を彷徨う。
前回の教訓が活かされず、同じように「どうしよう」。

JRの駅まで歩こうと決め、3人で歩けど歩けど着かない。方向逆だった。引き返す。
新大阪駅で走る。6:00発ひかりに何とか間に合った。
毎回濃いな、突破塾は。


桜井真理

2次会終了後「岳」前にて記念撮影。この後3次会、4次会へと宴は続いた(そうな)・・・。
あまがさきわたるです。
突破塾第2クールの内容は、序章にふさわしく、よく学び、考えさせられるものでした。
私事ですが、大学時代に「部落問題論」、「部落産業論」等フィールドワークもあった立派な講座があったのにかかわらず、当時の私はその名前に違和感を感じ、結局受けませんでした(今では大変後悔しております)。

それから時を経て、宮崎親分の本を始め、浅草弾左衛門等の書物や、私の住む近所の同和地域を間近に見るにつれ、非常に興味を持っていた矢先の今回の企画は、非常にわかりやすく、楽しかったです。

特に2次会(3次会と言うのか)では、上記の思いを解放同盟の方々とOPENに忌憚なく対話する事が出来ました。
私は、浅居書記長の言われていた、誇りを持ってありのままの姿を世に知らしめることはとても大事だと思います。
また不況になると部落への風当たりがきつくなる、と渡邊さんは仰ってましたが、それに負けることなく、一層ご活躍していただきたいと思います。

最後に家が近いということで、車で送ってくださった尼崎上の島のオオタさん、有難うございました。

すっかり「おヒゲの人」となられた親分。いつまで伸ばされるのでしょう?
「講演会での話をお聞きして+α」

私は伝衛門と申します。キツネ目組員でも突破党員でもなかったのですが、運良く参加させて頂くことができました。有り難うございました。
又、色々と雑務等をこなして、準備&運営して下さった突破塾事務局&ボランティアの方々、ご苦労様でした。おかげさまでとても有意義な時間を過ごすことが出来ました。
当日は、天候も非常に良く、秋晴れの良い一日でしたが、私的には道に迷って数時間程あちこちを歩き回り、会場に入る前にえらく疲れてしまっておりました。
(それでも、何とかリバティおおさかは行って来ました…)

会費を支払って、カンパ代わりにストラップを購入したところ、受付の方々から盛大な拍手を頂いてしまいました(笑)そんなに売れてなかったのだろうか、あれは…
2次会で寅姐さんからも、「今日買ったんですか?」と聞かれましたし…。
実際に今仕事場等で使っておりますが、作りもしっかりしていて良い出来です。
皆さんも機会が有れば、購入した方がお得かも。(私が営業をしてどうする…)

講演会では、宮崎親分のお話の後、渡邊氏の講演がスライドを交えながら有りました。
(浅居氏も当然居られたのですが、質疑応答以外はチャチャ入れがメインでした。
普段のスタイルとして、ボケとツッコミでもないでしょうが、漫才の様なスタイルで講演をされて居られるとの事でした。)

私は数ヶ月前まで新潟で暮らしていて、知っている限りでは周りに被差別部落の方々が居られなかったので、そのような話をキチンとお聞きするのは初めてでありました。
話の内容は歴史的な流れから、私の様な初心者にも分かり易い様に、噛み砕いて話して頂き、理解できました。

2次会では、直接渡邊氏とお話しさせて頂くことが出来、タイコや靴等の話も聞かせて頂き、楽しく色々な知識が吸収できて有意義な時間でありました。初参加ではありましたが、ゲストや他の参加者に話しかけても気さくに答えて頂いて、助かりました。

さて、本題の講演を聞いて何を感じ、又、何を考えたかという部分ですが…

私は体感的に被差別部落に対する差別というものが判っていなかったのですが、スライド等で今でも続いている行政の昔からの対応については初めて知りましたが、ここまで明確に差があるとは思っていませんでした。他の官庁そういう感じがかなりしますが、連綿と続く方針は変えていくことが難しいのだろうとは思います。

その中で、なぜ差別が続くのか?という点については、以下の様に考えました。

(1)差別する事が楽しいと感じている
 →イジメと同じ根の考え方という事でしょうか?
(2)差別をしないといけないと感じるような過去の体験がある
 →トラウマが有ったとか?
(3)業務上(又は一族の方針として)差別することが非公式に決められている
 →過去から連綿と続く伝統を守っている?
(4)差別をしないと自分にデメリットが有る
 →周りの目で、被差別部落の人と関わっていると印象が悪くなるとか?
(5)よくわからない存在は怖いので、差別する
 →噂だけで、直接確認していないと言うこと?
(6)心を安定させる為の理由付けとして、差別をすることで現実逃避する
 →失恋して心に傷ができて仕事に没頭する様に、何かの問題が発生した際に、その怒りや悲しみの矛先を差別に向けている?

 これからはどうあるべきか?という点については、以下の様に考えました。

(1)基本的に、人の心や在り様を劇的に変えることはかなり難しいので長期戦になる。
(2)まずは教育から。小さいときから柔軟な考えと差別の問題点を理解させる。
同時に、家庭や地域においても同様に徐々にでも理解していってもらう様に部落について知ってもらえる様に色々なイベントや交われる機会を様々な形で作っていく必要がある。
(3)日本人はマスコミの言うことを鵜呑みにしやすいので、マスコミをうまく操っていく必要がある。たとえば、被差別部落公認で、部落を題材にしたラブストーリーやコメディや社会派ドラマを定期的に提供して行くことで、部落に対するイメージをもっと掴みやすく、普通の人々と同じという風に伝えていく。

 私は人は変わっていけると信じておりますが、又同時に、偏見や実体のない不安を取り去るにはかなりの時間が掛かるとも思っております。私は「人は感情の動物だ」とも思いますが、又同時に「本能以外の感情は、論理的に作られている」とも思っておりますので、自分の感情を論理的にコントロールして、自分の心を見つめ直すことによって、差別等を起こす感情を切り替えていくことが出来ると信じております。

乱筆乱文、支離滅裂についてはお許し下さい。

では、失礼いたします。

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Written by 伝衛門
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スライドを使っての講義。部落の歴史、入門編
 部落。ぶらく。ひっくりかえすと『くらぶ』、すなわちクラブ、あるいは倶楽部。『部落』だとなんだかブラックで、バラックが建ち並んでいるような暗〜い響きがあるが、ひっくり返すだけで、気の合う仲間が集っていそうな楽しげな響きになる。不思議だ。実に不思議。
 ・・・って、別にダジャレでちゃかそうっていうんじゃない。僕が言いたいのは、ある言葉に刷り込まれてしまっているどうにもならない『悪印象』が、その言葉を目に、あるいは耳にしたときにどのような作用をおよぼしているのか、という話から始めようと思っただけだ。
 
 僕に部落民を差別する意識は薄い。しかし「薄い」というのがミソだ。薄いだけで、ない!といいきれないのが切ない。なぜか?
 僕の育った町にも『部落』と呼ばれるエリアはあるにはあったが、とくにそこへ行くななどと言われたこともなく、昔はその辺の子供とも普通に遊んでいたような気がするし、単に町はずれのいなかちっくな集落というイメージしかない。
それは土着意識の低いベッドタウンで育ったからかもしれない。しかし、いつの頃からだろう、『部落』と聞くと『同和問題』が同義語として脳裏をよぎるようになった。そして、そこにこそものすごくイヤ〜なイメージの源泉があるのだ。

 これは僕だけではないはずだ。僕の周囲の多くの人間で、ことさらに部落について差別的な発言をする者はいなかった。むしろ「部落差別はいけません」と、学校でそう教えられたとおり至極道徳的に考えている方が自然だと思う。たまにあからさまな差別発言をするヤツもいたけど、そういう時周囲は必ずそれに対する反感をあらあわにしていた。もちろん僕もだ。あたりまえだろ。
 
 あたりまえ?
 いや、それはあくまで表面的な態度に過ぎない。ホントはそうだろ。
 
 本当は、「部落差別はイケマセン」っていうのは、「同和問題を考えないヤツは人にあらず」みたいに迫って来て、クソ高い本を無理矢理買わされ、「ああ、また『ドーワ』が来た。」と嘆く中小企業のシャチョーさんとかの嘆きを聞いているうちに、つまるところ「イケマセンので触らぬ神に祟りなし」というニュアンスになっているんじゃないのか? それが僕の育った環境での部落差別に対する典型的なアプローチだと思う。
 
 とにかく、「部落差別はイケマセン」と声高に叫ぶことを生業とする人(エセ同和な人です)たちが、徹底的にイケテマセンでした。そして、そんな人たちの悪印象によって、そのまま『部落』が「いなかちっくな集落」から「触らない方がいいもの」へとすり替わっててしまったために「部落差別はイケマセン」は、せっかく無垢なる時代に学校で教わって純粋にインップットされても、いずれ単なる標語に成り下がるような社会環境が整ってしまっていた。しかも、それを教える側は、すでにして「同和問題なんてホントは触らない方がいい」と思っちゃってるわけだから、それ以上の突っ込んだ話にはならないに決まってる。いやそもそも、そんな道徳の指導要領そのものが「差別意識」に基づいていたのかもしれない。基づいてんだろ?
 
 だから僕たちは『部落』という響きに決していい印象を持てない。いや持てるよ、なんて言うヤツの方が僕は信じられない。そいつがよっぽど崇高な教育を受けてきたか、あるいは「誇り高き」部落の人本人である場合以外は。
 しかし、もうこれはどうしようもない。三つ子の魂百まで、じゃないけれど、幼少の頃から知らず知らずのうちに刷り込まれてしまったものはなかなか払拭できない。それゆえに、こういう問題は根深くやっかいなものなんだろう。
 
 じゃあ、どうすればこの『悪印象』は解消されていくのか。
一つ思うのは、悪印象を解消する、というと、単純にイメージアップを図ることに専心してしまいがちなのが常であるけれど、それがイケマセン。
 たとえば「部落」という言葉がそもそも印象悪いから使うのやめましょう、みたいな発想。
よせやい(笑)。今でも「同和地区」とか言ってみたりしてるけど、それで本質が変わったか?変わってない。なんだよ「同和」って。「同じですから和しましょう」? 気持ちとしてはそれでいいのかもしれないけど、だからって無理矢理名詞化すんなよ。
 じゃあ、冒頭のコトバアソビみたいに「部落」を「ぶらく」ってひらがなにして、かわいらしく印象を和らげてみましょうか?
おいおい、それじゃあ余計なんだかわからなくなるじゃないか。これだから困るよ三流コピーライターは(^^;

 結局、今現在まで根強く残ってきた「部落」というものに対するそれぞれの認識を無理やりねじ伏せるような他人行儀な改善策ばかりを追求しても、当事者(部落民)たちの屈辱など消えも癒えもしない。それどころか、そんな愚策がさらなる高い壁をつくり、溝を深めるだけだ。
 だから僕は思う。「部落差別はイケマセン」、その発想がイケマセン、と。
そこからスタートして、いきなり意識を180度転換しようとさせるからめんどくさいんです。部落差別は「ある」んです。僕の心の中にも、君の心の中にも、ちゃんとそういう意識が刷り込まれてるんです。っていうか、僕らは多かれ少なかれいろんな「差別意識」の中で生きているんです。だから「なかったこと」にしようなんて土台無理なんです。
 だけど、こう「感じる」のは割とたやすいんじゃないか。
「差別されてる『部落』は、結構イケテル」

 今回の突破塾で講師として熱弁をふるっていただいた渡邊氏や浅居氏、すごく面白かった。だけど、明らかに僕の育ってきた環境とは違うところで育ってきたんだ、という印象も同時に与えられた。そりゃ違うんじゃないの?と思ったりする考え方もところどころあった。でも、そんなの、日常でいつも感じていることだ。「部落差別はイケマセン」なんていう意識で話を聞いているから彼らの主張に過敏になったり、無理して理解しようとするからどこかでぎくしゃくしちゃったりする。

 普段考えもしなかったようなことを、突然考えようとするからわけわかんなくなる。考えるより、「感じ」てみた方が手っ取り早い。考えていくのはそれからだ。

 僕は思う。渡邊村が不当な差別に屈せず頑張ってきたのはよくわかった。だけどそれより、そんな長い閉塞状況のなかで培われてきた独自の文化みたいなもののほうに、僕はシンパシーを感じた。太鼓を作る技術。僕は打楽器をやるから、良い音が鳴る太鼓を作るのには熟練の技が必要なのを知っている。太鼓の音をよく「怒り」として表現することがあるけれど、それは音質とか演奏によるだけじゃないような気がした。その後みんなで、渡邊村のいわゆる「Soul Food」を堪能した。さいぼし(馬肉の薫製)、にこごり(牛すじ肉入りゼラチン固め←変?)、油かす(牛モツをかるく揚げたものと水菜のはいったしょうゆ味の汁物)。これがどれもうまいんだぁ、まさに暮らしの中から自然発生的に生まれた魂の味。だから食うのが好きで、料理をかじったことのある僕はついつい質問したくなる。「これ、なんで『あぶらかす』っていうんですか?」。

 こんなんでいいじゃんか。なにも初めからしかめっツラして同和問題について思いを巡らさなくても。いや、この問題に取り組みたい、とホンキで思った人は迷わずそうすればいいんであって、なにもそこからだけがこういう問題を解いていく糸口じゃない、そんなんじゃなくてもいいってことだ。 もっとサブカルチャー好きみたいに、あるいはもっとHanako的に(?)、欲ぼけ日本的に(笑)、面白いものとかおいしいものとかを「差別」とは別の次元で楽しんでしまえれば、それだけで敷居は低くなる。僕らはもっとこの問題に関してラフになってもいいんじゃない? でもこれって、頭でわかっていてもなかなかできないんじゃない? そこが問題なんだと思うのだけど。
 
 だって、部落の人たち、少なくとも部落解放同盟の人たちはこう言ってるんだよ、「おれ達の面白さをもっと見て知ってくれ」って。それで今度『部落の技』っていうイベントをやるんだそうだ。『部落の技』、うわっキツそうなタイトル!! でも彼らがこれでいこうって決めたんだよ。僕にしてみれば、このタイトル潔いし、コピー的にも「何やるんだろう?」って思わせるインパクト十分。
これを面白そうと思うか思わないかは人それぞれだと思うけど、興味を持ったこっちがそれをどう面白がろうと、楽しもうと文句は言わせない。もともと温度差があるんだから、まずは無理して考えるより、感じて楽しむスタンスを身につけた方がいい。そうこうしてるうちに、僕らの意識はきっと「イケマセン」から「結構イケテル」になり、「こっち」とか「あっち」なんてありもしない区分線を引かなくなるんじゃないかなあ。
 
 だけど、多分こんな風には考えられない人が未だいっぱいいるんだろう。疑いもなく、「あそこは部落だからダメ」という人を知っている。ただしその人も身体的な欠陥によって差別を受けたフシがある。でも、何がだめなのか聞くと、「ダメだからダメ」というスゲエ答えしか返ってこない。そういうことだ。差別を受けた屈辱感は場合によっては別の差別を生む。だから差別は絶対になくならない。しかし一方で、浅居氏の身内の男の子などは、結婚相手を見つける際に、心配する浅居氏をよそに「部落?差別?関係ないよ。第一おれがそんなこと気にする女を好きになると思う?」と言ってのけたという。そういうイマドキな「あっけら価値観」もちゃんと育っているということだ。
 
 だから僕は思う。こういう時代だから、解放運動もあっけらかんとやるべきだ。それで、イマドキくんたちが「イケテルぅ」とか言い出せば、馬鹿メディアはそれにとびつく。メディアが騒げばおやじやおばはんが関心を持つ。もともと差別心の強かったおやじとかおばはんとかは面食らうだろう。でも世間がもてはやせば差別発言も出しづらくなるだろう。ざまあみろだ。
 
 だから、僕は考えた。ブラク解放クラブ『BLACK FREEDAM』を出店しようぜ。どこに?うーん新宿・・・大阪のミナミあたりでもいいけど、いやいや最初は渡邊村でひっそり始めるってのも良い。マイナーなムーヴメントの発祥地としてはうってつけだ。面白けりゃキッズはどこだって行くし、むしろマイナーなところにあった方がディープでイイってヤツも多いし。で、そこで同和地区出身のDJやラッパーに、過激なライム(詩)のラップを演らせるんだ。それから、ドリンクのつまみに酒が進む「さいぼし」を出そうぜ。酒が進めば過激に盛り上がるぜ。
怒りも一気にバクハツだ。で、そこで時々太鼓のイベントをやるんだ。「Thisis JAPANESE FUCKIN' SOUL BEAT!!」とか銘打ってな。ハデにドカドカやろう。今は理屈の時代じゃない。「感じたまま」がウケるんだ。理屈じゃなく、ソウル(魂)に訴えかけるんだ。普段学校で勉強なんかしないクラブキッズはその分、カッコイイと感じたことはどんどん受け入れるオツム容量のスペースがある。だからビートでヤツラを暴れさせろ!で、時々店に手入れなんかが入ったりして、社会問題にしちまえばいい。いいじゃん、もともと同和問題は「社会問題」なんだから!! だけど実は、その店で昼間、ちゃっかり今回の突破塾みたいな講義を定期的に開いてるんだ。夜のうちにビラ巻いておくのさ。キッズは意外と社会の矛盾とかに敏感だよ。だからヒマなフリーターとか学生が講義を「自発的に」聞きに来るかもしれない。そしたらしめたもんじゃないか。社会派ジャーナリストとかが取り上げるかもしれないぞ。「部落解放運動の新しいカタチ」とか言ってなぁ。そうこうしているウチに、『BLACK FREEDAM』出身のラッパーがメジャーデビューしちゃうんだ。その曲がまた「誰がエタやねん!!」とか過激すぎて放送コードにひっかかってまた大騒ぎだ。うーん凄すぎる。
 
 ・・・・。なにエキサイトしてんだろ。なに?荒唐無稽? いやそんなのいいんだよ。こんな風に考えると、『同和問題』も違った見え方がするだろ?って言いたかっただけです。
気分悪くされたらあしからず&渡邊村にRESPECT。
 
NANIO 拝

とっても表情豊かにお話される渡邊さん。
今回の突破塾は第二クールの幕開けに相応しい、充実したものであったと思います。
色々と勉強になり、良い意味でショックも受けました。

「怒り心頭やで」
何度もこの言葉を交えながら、講師の渡邊さんが語られた部落差別の現実には、
正直、愕然としました。

七十年代になっても満足な水道管さえ配備されていなかった。
大きな病院が出来ても医師はすぐに転勤してしまう。
良い空き地があるのに道を隔てた向いの町に新しい店が開店する。

そんなアホな!と言いたくなるような無茶苦茶な差別が、
渡邊さん、浅居さんの暮らす町ではまかりとおってきたのですね。
様々な具体的なエピソードを聞いているうちに、もしかして、部落問題に真剣に接したことのないぼくも、どこかで差別する側に加担していたのかもしれないな、と思えてきました。
そして、部落差別(に限らず、あらゆる差別)問題は、差別する側の問題なのだな、とも思いました。

それにしても、渡邊さんは人間的魅力あふれる方でした。
すっかりファンになってしまいました。
人権文化センターでは色々なイベントを企画されているようなので、またお話をうかがいに行きたいと思います。宮崎オヤブンは吉本のような、と形容されてましたが、どちらかというとあの語りの熱っぽさは、往年の松竹新喜劇に近いのでは?

午前中に見学したリバティおおさかも素晴らしかったし、二次会でいただいたサイボシ、アブラカス、ニコゴリの三点セットも評判以上においしく、大満足の一日でした。

ただひとつの心残りは、三次怪の焼き鳥屋さんで、渡邊さんとS女史が激論を戦わせていた恋愛論?の決着をみないまま、帰途に着かねばならないことでありました。

宮崎オヤブン、渡邊さん、浅居さん、乙女組のみなさん、どうもありがとうございました。

しょうどう

「ボケ」連発の渡邊氏に対し、「ツッコミ」役の浅居氏。ベタベタの大阪人でらっしゃいます(^^;)
十数年前天王寺の予備校に通っていた僕にとって、遊び場は阿倍野、新世界、恵美須町、日本橋、難波のあたりだった。
天王寺−新今宮−今宮−湊町、JRの関西線の昔の駅名を書いてみると今宮駅の雰囲気が良くも悪くも、当時電車で利用しづらい駅と云う以上全然分から無い。
環状線に当時は入ってなくて乗り換えが必要だったし、駅の下が白い土手になって緩い弧を描いていて湊町(当時)へ一駅なのにやけに寂びれた駅舎だった。

芦原橋に行く為に、今回は近鉄難波から歩いて芦原橋まで行ってみる事にした。
JR難波と名を替えた広い駐車場の中の立派な駅、柵に囲まれた誰も利用していない駐車場になるのか空き地が続き、公園では野球をしている子供とそれを見ている段ボール集めのおっさんが何人か。なんか大阪の感じと違う。
芦原橋駅について時間に余裕があるのでそのへんを歩く。
ますます、大阪感と云うか、大阪に来た時との感じが違うのだ。
感想文であるので、日本語で表現できるといいのだが”どやどや””ごてごて””ざわざわ”こう云う音を大阪は持っていると思う。
しかし今回の難波−稲荷−塩草−芦原橋の間にこういう音が感じられない。
ひと気が絶対的に不足している、見つけられないのだ。
芦原橋からリバティ大阪の間の住宅も、今はこぎれいになっているけれど公園にも住宅にもひと気が見当たらない。

渡辺さんの講演を聞いて分かったと云うか、気付きができたのが今日歩いてきた道なりに、コンビニ、銀行、本屋、マクドとか吉野家が全然無い。
その割には、芦原橋には銭湯とジュースの自販機が多くて、ジュースは自販機の真中ぐらいの高さから出て来る。障害者や老人にやさしいバリヤフリーと云うことなのか。

今回の突破塾に参加した人の多くが芦原橋で電車を降り、又乗って行っただけだったら渡辺さんにほぼ一方的におしゃべりされた事になるので、付近を歩いてみるといいと思う。
今回は、現地の歩行観察を講演が肉付けしてくれた体感がある。

もし、大阪で働く事になったら、どこに住む事になるのだろう?
難波駅徒歩15分のさびしい街に住むんだろうか。

差別と云うことは見えなかったが、大阪らしくない大阪を体感できた突破塾でした。
次回にも期待いたしております。

寺舎九(じしゃく)

2次会の「岳」にて、見事な手つきで太鼓を作る渡邊さん。親分に進呈された。
静かな町芦原橋。道路はきれいで広々としているが、何かたたずまいに違和感がある。
何が違うのかな・・・。
お金をおろすのを忘れていたので銀行を探す。見当たらない。
市場のおじさんに聞いてみたが「この辺ないんですわ」とすまなさそうにおっしゃる。
JR環状線の駅前なのになんで・・・?
頼まれ物があって薬局を探す。
市場のおばさんに聞いてみると「薬局ねえ、病院の指定薬局が隣にあるだけやねぇ」。
そこでことは足りたが、薬局もないの?駅前なのに?
肌寒いのに半そでを着てきてしまったので、コンビニでカイロか何かを買おうとキョロキョロ見渡してみる。コンビニコンビニ・・・。ない。これもない。
こんなに交通の便がいいのに。住宅もたくさんあるのに。
道も広いし、土地だって更地がちらほらとあるのに。

渡邊さんたちのお話を聞いて、この状態こそが今も続く「差別」の現実だと知る。
人が暮らす街にお店がない。
企業は利益が見込めるところには出店するはずなのに、お店がない。
「モノポリー」にも「いただきストリート」にもそんな場所は登場しない。

自分がこの街に生まれていたらどうしていただろう?
考えてみたが、想像が及ばない。
在日の街、猪飼野に生まれ育った私だが、そこにおける差別問題とはまた全く色合いが違う。
「国籍」よりも深い溝が、同じ日本人同士の間にあったことを初めて実感を持って知った。

突破塾に先駆けて打合せのために解放同盟を訪れた際、浅居さんはこんな話をされた。
「被差別部落の印象を外の人に聞くと、だいたいこう言いはんねん。
 『暗い、怖い、すぐ集団で抗議しに来る』。
 そう言う人に聞いてみんねん。
 『ほな聞きますけど、あなたは被差別部落の人に会うたことありますか?』
 『ありません』
 『被差別部落と言われる街に実際に行ったことありますか?』
 『ありません』
 『被差別部落の人に集団で何かされたことがあるんですか?』
 『ありません・・・』
 ほななんであなたはそういう印象を持ってるんやと。
 そんなん思うまえに、いっぺん実際に部落に来て、そこに住んでる人に会うて、しゃべってみてくれと」。

それを「ほんまや」と思って聞きつつも、自分もその人とあまり変わらない人間だったと思う。
今までアウトローと呼ばれる方には突破塾にたくさん来ていただいた。
会ってお話を聞くと皆さんとてもやさしく、気さくで、そういう方々と接してきた自分はもう職業や国籍など「肩書き」で人を判断しない人間だと思っていた。
でも、「被差別部落」という言葉、そしてそこに暮らしている人たちに対して、「知らない」ということをいいわけに、やはり「もや」のような先入観があったことを思い知り、自分のノーテンキさと未熟さをあらためて思い知った。

猪飼野において在日の人は中学入学と同時に本名を名乗るようになる。それで日本人のクラスメイトも「あの子、韓国(人)やったんや」と知るが、だからといって何も変わらない。あの子は韓国かぁ、もし将来結婚したら親戚づきあいが大変そうやなぁ、などとマセた女子が思う程度である。
また小学生やもっと小さいうちから「ウチ韓国やで」と明らかにしている子も多い。というか、そのことを隠そうとする友達はほとんどいなかったし、家に遊びに行けばすぐにわかることでもある。
猪飼野という街は、日本人のほうがむしろマイノリティだと感じるようなところだ。だから「在日差別」と言うのも、実のところ私にはいまだにピンと来ていない。「うちとは風習が違う家」ぐらいにしか思えないからだ。

私にとって「在日差別問題」はまず「人」ありきであった。韓国籍の友人が「私ら公務員にはなられへんからなぁ」と言ってるのを聞いて「へ、なんで?!」と聞いてしまったほど私はノーテンキだった。「こんな優秀な子を雇えへんなんてアホちゃうか」と言うのが率直な意見だったし、彼女にしても「まあしゃーないわ」と「システム」として割り切っているように見えた。「私たち、差別されてるの!」というような感情的な反応は、少なくとも友人には見せなかった。そこに差別はなかった、などと言う気はないが、不条理ではあっても、湿って澱んだ空気はなかった。少なくとも私はそう感じて育ってきた。

話を戻して、大阪における部落問題。親分が今回のタイトルを「もうひとつの大阪」とおっしゃったとき、「やられた・・・」と思った。今までの突破塾でスケールの大きなアウトローの方々と出会わせていただいて、多少は世間を知ったような気になっていた自分は、己の故郷のことすらろくに知らなかった。カーンと頭をドツかれたような気分。
そしてこの日の講演で知った「差別」の現状は、人間の心の澱(おり)を見せ付けられたような感じだった。
しかし救いがあった。
それは浅居さんたちが「『かつてここではこんな差別があった』と言われるようになるのが理想だ」と言われたことだ。なかったことにはしない、できない、したくない。だけど変化させることはできるに違いない。差別を受けてきた側の方からそんな「人の心の可能性」を信じる言葉が出てくるというのが救いだった。

Love is understanding

マドンナの曲のフレーズだ。
理解することが愛。では「知る」ことはその最初の一歩に違いない。
自分にできることは、頭から湯気を出して「差別、許せないもんっ!」と叫ぶことではなく、ふとした話のなかで「ところで知ってる?部落差別ってこんな形で今もあるんやて。グローバル、とか言うてるこの時代にそんなんおかしない?」と友人や知人にネタをまくことだと思う。「ほんまや、おかしいなぁ、ヘンやなぁ」という意識が広がっていけば、どこかで何かが少しずつ変わっていくかもしれない。
そしてまた人を誘って「リバティおおさか」に足を運ぼう。
さいぼし、油かす、にこごりというご馳走をよばれたお礼はしなくっちゃ。

親分、ほんとに《序章》にふさわしい企画をありがとうございました。
そして渡邊さん、浅居さん、ありがとうございました。出会えて嬉しかったです。
スタッフをしてくださった皆様にもあらためて感謝いたします
これからも突破塾、楽しんでいきましょー!

寅姐


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